日本酒を遊び、文化を編む
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桜の下で盃を交わす理由
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桜の下で盃を交わす理由

日本酒を遊び、文化を編む

呑んで美味しいもの、だけではない日本酒。

文化としての日本酒を掘り下げたり、日本酒というレンズを通して別の文化を見つめてみたり。
自由な探求と実験を行い、発信していくジャーナル「日本酒を遊び、文化を編む」。

春、日本人はなぜ桜の下で酒を酌み交わすのでしょう。

「花見酒」として親しまれるこの風習は、単なる春の宴ではなく、日本文化の深層に根ざした歴史の積み重ねの上に成り立っています。

奈良・平安時代から江戸時代を経て現代に至るまでの花見酒の変遷を辿りながら、日本人が桜と酒に込めてきた想いを探っていきます。

貴族が愛でた静寂の花見と神聖な酒

花見の起源は奈良時代まで遡るとされています。
当時、愛でられていたのは桜ではなく梅。遣唐使を通じて中国からもたらされた梅の花は、貴族たちにとって風雅の象徴でした。

平安時代に入ってから次第に桜が注目されるようになり、貴族たちは宮中や邸宅の庭園で静かに桜を眺め、和歌を詠みながら酒を交わすことで風流を愉しみました。
しかしこの時代の酒は、現在のように庶民に広く普及していたわけではなく、流通の多くは貴族・寺社・官吏などの上流階級の間で行われていました。
酒造も貴族や宮廷内で行われることが多く、宮廷行事や祭礼の際にはこの酒が用いられており、嗜好品というより神聖な儀式の一環としての側面が強いものでした。

奈良・平安時代の花見は、賑やかな宴というよりも、文化的で静謐なひととき。
桜の花を前にしながら、貴族たちは言葉や心を通わせ、自然の美と人生の儚さを味わっていたのです。

花見を権力の誇示に。豊臣秀吉と「醍醐の花見」

花見の文化が一つの転換点を迎えたのは、戦国時代の終わり、豊臣秀吉の「醍醐の花見」でした。

1598年、秀吉は京都・醍醐寺に700本もの桜を移植し、大規模な花見の宴を催しました。わずか1ヶ月の突貫工事で庭園を整備し、宮廷文化を思わせる豪華絢爛な宴を実現させたのです。

この花見には、正室の北政所(きたのまんどころ)、側室の淀殿(よどどの)をはじめとする約1,300人の女房衆が招かれました。男性の客は、秀吉とその嫡子・秀頼、そして前田利家のみ。名だたる大名や戦国武将たちは、伏見城から醍醐寺までの道中警護を務める役割に徹しました。

秀吉にとってこの花見は、単なる娯楽ではなく、権力の誇示や家臣との結束を強めるための政治的意図が込められていました。
全国から選りすぐりの銘酒が集められ、豪勢な料理とともに振る舞われたこの宴は、花見と酒を愉しむ宴としての文化の出発点となりました。

江戸時代の大衆文化へ

現在のような「花見酒」のスタイルが定着したのは、江戸時代に入ってからのこと。

八代将軍・徳川吉宗は、幕府の財政立て直しを目的に享保の改革を実施しました。
この改革では、歌舞伎や遊郭といった娯楽の規制が強化され、庶民の愉しみが制限されることに。娯楽の減少により、世の中には窮屈な空気が漂っていた中で、新たに健全な娯楽として奨励されたのが花見でした。

吉宗は、隅田川や飛鳥山などに数千本の桜を植え、庶民にも花見を愉しませる政策を推進。これにより、江戸市中に桜の名所が増え、人々は酒と弁当を持ち寄りながら桜を愉しむようになります。
特に、江戸の御殿山や隅田川の桜並木は大いに賑わい、家族や友人とともに酒を酌み交わす風習が定着。奈良・平安時代の花見が限られた貴族のものだったのに対し、江戸時代には酒造技術の発展も相まって、日本酒が庶民にも身近なものとなり、花見と酒が一体化する文化が形成されたのです。

庶民にとって花見は単なる桜の鑑賞ではなく、春の訪れを祝う宴へと変貌を遂げました。
桜の木の下で盃を交わし、日常の憂さを晴らす娯楽として。それは、江戸の粋な文化として現代まで受け継がれていくことになります。

受け継がれる文化と新たな愉しみ方

現代でも、春になると多くの人が桜の木の下に集まり、酒を愉しみます。
ただし、近年では公園での飲酒ルールが厳しくなったり、個々で静かに花見を愉しむスタイルも増えてきました。
また、日本酒の多様化も進み、花見の席では純米酒や発泡日本酒、ロゼ色の日本酒など、春らしい銘柄を愉しむ人も増えています。
歴史を紐解くと、花見酒は時代とともに形を変えながらも、「桜と酒」という本質は変わることなく日本人の心に根付いていることがわかります。

かつて貴族が和歌を詠み、秀吉が権力の誇示に用い、庶民が春の喜びを共有した花見酒。
現代に生きる私たちも、桜の下で盃を傾けるとき、日本文化の長い歴史の中にいることを実感できるのではないでしょうか。